「自分は実は存在ないのではないか?」
「自分とは一体何なのだろうか」
このような疑問を抱くことは誰しもあるのではないでしょうか。
しかし、その実態まで迫ろうとする人はほんの一握りです。
本記事では、自分とは何か、何が自分を作っているのかについて、少し深掘りしてみましょう。注意として、本記事は精神疾患などに関する内容ではありません。あくまで哲学的に自分とは何か、というアプローチの話となっています。
「自分」は存在しない
「自分」を少し俯瞰してみると、実はそこに確かに存在しているように見えて、実はただ脳が映し出している何かしらのキャラクターでしかないように感じられます。
例えば、社会には無数に人がいるわけであり、そこには人それぞれの「自分」があるはずです。しかし、私たちがその相手の「自分」を認知することは基本的に難しいです。
ということは、「自分」とは物質的に存在しているように見えて、実は映像のような、概念のようなものなのです。
ここで”存在の定義”を確認しておきます。
事物がある㈠⑴こと。人物が居ること。また、その、ある(居る)もの。
そこにあるわけではなく、各々が認識している世界だと考えれば、実は「自分」は存在しないと言えるのではないでしょうか。
自分は過去の経験や記憶によってつくられる
とはいえ、「自分」らしきものが意識として各人にあることは認めなければいけません。
では、その「自分」は一体何によってつくられているのでしょうか。
もちろん脳が作っているわけですが、では脳は何をもとに「自分」を形成するのでしょうか。
仮説として、それは”経験”や”記憶”によるものではないかと思います。
ここには遺伝子レベルでの経験や記憶もある程度含まれているとしましょう。
例えば、過去に極度の対人ストレスを感じた人は、その後の人生で人と向き合うことが苦手になる傾向があります。
これは脳が「対人関係を避ける自分」を形成したわけであって、元々そのような「自分」だったわけではありません。
つまり、意識内の「自分」とは、過去の経験や記憶、もっといえば物語(ストーリー)によってつくられていると言えるでしょう。
今の「自分」をつくった要因は?
となると、皆さんや私の「自分」をつくった要因は一体何なのでしょうか。
これは単純に二元論で語れることではなく、グラデーション的に複数の要素が絡まり合ってできているため、一概に”これが「自分」をつくった”と考えるのは危険です。
ただし、まるでRPGのように自分がどのような経験値を積んで、どんなスキルを習得してきたのかによって、得意不得意や世界観が変わってくることはおおむね正しいと言って良いのではないでしょうか。
「自分」と「観察者としての自分」
「自分」が何でつくられてきたかを考えていると、ふと「観察者としての自分」という意識も芽生えてきます。
これが「自分」に含まれるかどうかは、パラドックス的な問いになるため、一旦そばに置いておくことにします。
「観察者としての自分」がよくわからない人は、ゲームで例えてみるとわかりやすいです。
そこには、ゲーム内のキャラクターとしての「自分」、そしてそれをプレイする視点での「観察者としての自分」がいます。
どうやってキャラクターを育てるのかは、観察者の自由ですよね。
「自分」を意図的につくることは可能
つまり、「自分」は意図的に形成することも可能なわけです。
例えば、「この経験値を積んでおけば、この相手に勝てるようになりそう」というようなイメージです。
これは私たちの世界でも同じで、「自分」というキャラクターに「学歴」という経験値を積ませておけば、一般的には就職が有利になったりするわけです。
逆に「運動」という経験値が足りていないのであれば、「運動不足」としてのキャラクターができてしまうのも必然と言えるでしょう。
「自分」にどのような経験値を積ませるのかによって、「自分」を意図的につくることは可能なのです。
これは「自分」というものがたしかに世界に存在するのではなく、ゲームデータ的な意識的な何かとしての概念だからです。
「自分」がダメージを負った時、「観察者としての自分」はどうするか
この事実に気づいた時、「自分」というダメージを負ったとしても、十分に回復可能であることがわかります。
というより、意図的に回復させるべき、とも言えますよね。
逆に「自分」がダメージを負ったからといって、「観察者としての自分」もダメージを負う必要はありません。
そもそも「自分」というのは存在せず、そこには何かしらの痛みや苦しみといった概念があるだけです。
まるで体力ゲージが少し減ったゲームキャラクターを眺めているように。
「自分」が存在しないことを認める
「自分」が存在しない、というのは今に始まったことではありません。
私たちは肉体も意識も含めて、世界のつながりの一部でしかなく、個として存在するものではないのです。
植物が生えては枯れるように、虫が毎年同じ時期に増えるように、ただ世界の仕組みの一部として動いているだけなのです。
そこになぜか意識のようなものがあり、実はその意識構造すら、世界の一部に過ぎないというわけです。
これは一見悲観的な事実のように思えますが、認めてしまえば「自分」をどう楽しもうが、それはもう自由という朗報にもなり得ます。
認めた上でどう生きるか
伝えたかったのは『「自分」なんて存在しないから、何しても無駄だよ』という虚無主義(ニヒリズム)的な思想ではありません。
むしろ楽観的ニヒリズム(=どうせ「自分」なんてないから、何をしても自由)という話です。
あなたはこのゲームをプレイしているだけで、そのキャラクターの痛みや苦しむまで感じる必要はありません。
もちろん操作している観察者として、「あぁ、ダメージを喰らってしまった」くらいは思うかもしれませんが。
この世界というゲームをどうプレイしようが、それはもうあなたの自由です。
もちろん、だからと言って他人を意図的に傷つけたりする必要もありません。
ただ、「自分」という意識が世界の仕組みとして流れているだけ、それを観察するだけ、ということです。
「自分」が存在しないと認める恩恵
これが悲観的な話なら、「自分」はたしかに存在するんだ、と思い込んでいた方が、よっぽど楽です。
そもそも大半の人はそのように生きており、あなたのような哲学的な思想を持っていたり、自己省察力、メタ認知力などが高い人しかこのような疑問は抱きません。
でも気づいてしまったなら、「自分」が存在しないことを認めつつ、次のような恩恵を凌駕するば良いだけです。
- 「自分」はどうしようが自由
- 「自分」の痛みや苦しみまで味わう必要はない
- 「自分」に優しくする
無理に「自分」をコントロールする必要はありません。
ただし存在しない「自分」を客観視できれば、余計なストレスを感じなくても済むようになります。
例えば、
「上司に怒られた」
「名前も知らない人に嫌な顔をされた」
というのも、「ふーん、そうなんだ」くらいに受け流せるようになるのではないでしょうか。
逆に、
「あ、今自分は体調が悪いのかもしれない」
「この経験値を積ませてあげれば、もっと自分は楽できそうだな」
みたいなことにも、積極的にアプローチできるのではないでしょうか。体調が悪そうなら休ませてあげれば良いし、その経験値が詰めそうな環境を用意してあげれば良いだけです。
まとめ
この考えは仏教とかでも古く伝わっており、瞑想によって自己を切り離すような感覚を身につけやすくもなります。
その辺からインスピレーションを得て、自分なりの解釈としてまとめてみました。
もちろん、これも私の「自分」という意識の中の考えなので、参考にするかどうかは自由なわけです。
あなたなりに解釈しつつ、悲観ではなく楽観的な方向に捉えてみるのはいかがでしょうか。
P.S.金木犀の香り
私という「自分」は、どうやら金木犀の香りが好きなようでして、普段からその香水だったり、お香だったりでストレスを軽減しています。
ぜひ皆さんにも使ってみてほしいなと思い、おすすめの香水をまとめていますので、よければ参考にしてみてください。